予想の斜め下に埋まっているブログ

徒然なるままに考えたことを書く、読んだ結果「ひまつぶしになった」という効用以外ないブログ

「今の自分の感じ方・考え方」をメモしておくと後々いいんじゃない?って話

 僕はニュースで報道されるような社会問題や個人的に感銘を受けた事柄に出会った場合には、そのときの気持ちや考え方をメモるようにしている。Google Keepを使って一つのメモにまとめている。新しい文章はすでに書いてある一行目を改行してそこに書くようにしているので、あとから見返すとさながら地層のように自分の考えの変遷をたどることができる。

 人はどんどん変わっていく。今は当たり前だと思っている考え方が未来もそうだとは限らない。変わっていくことを否定するわけではないが、その「変わった理由」を考える上では今までどんな考えを持っていたのか知っていないとできないと思う。そういう意味で自分の指針となるものの作成に一躍買うと思ってこれを続けている。

 そんなに深刻な話にしなくても、「昔はこんなふうに考えていたな」と振り返るだけでも面白いし、発見がある。

読書について

 「年間数百冊読んでます」という宣言は一つの指標ではあるがその読書生活の実態を表したものではない。本当に重要なことは「その読んだ本の中から一生ものの何かを得られたか」だ。

 ショーペンハウアーに言わせれば「読書は他人にものを考えてもらうことであり、自分の脳内の運動場を好きにさせることだ」と「読書はなるべく敬遠すべきであり、事物に関して施策をめぐらせられないときに取り組むようなこと」である。だが、この助言が対象としているのは次世代に残るような金字塔を打ち立てる人に対してであり、そのような人は自ら心理をつかみ取ることができるので読書は必須ではない。しかし、我々一般人に関しては現実をより深く理解するための助けが必要である。

 また、「知識の収集」と「読書」との違いも考えるべき問題だ。知識の収集のためには最新の情報に触れる必要もある。しかし、「情報を得る」ことと「読書」することは必ずしもイコールで結ばれるものではない。情報はそれに触れることで簡単に得られるが、知識を得るのは読書を通してでしかできない。

 最新の情報に触れることは重要だが、覚えておく必要はない。逆に真の読書はその本を何度も読み、自分の中の思想体系の一部として吸収するために行うことで、また、それをするに値する本で行うべきだ。

 ほとんどショーペンハウアーの丸パクリの考え方だが、ショーペンハウアーは『読書について』のなかで「通俗的日刊新聞」についてひどくこきおろしている。「人の時間を奪う巨悪だ」と。この点に関しては現代社会に当てはめると疑問の余地が残る。ここで上げている「通俗的日刊新聞」というのが東スポレベルのことを言っているのかそれとも五大紙も含めたものを言っているのかは分からないが、仮に五代紙を含めたすべての新聞に関して言っているのであれば、現代において「ニュース」を知らずに生きていけるのかという疑問が発生する。「通俗的」が原文においてどのように書かれているのか調べる必要がある。

みんなが食いつくようなブログ構文の文章は書きたくない(僕の「読まれないようにする」のブログの書き方)

(今回の話に明確なオチはないので本当に暇な人だけお読みください)

 ただそんな気分。ショーペンハウアーの考えにどっぷりつかっているので、基本的に自分の作品に対してなるべく時間を使ってほしくないと思っている。それならば、過去の名著なり、名画なり、名盤なりを鑑賞する時間に使ってほしい。そもそも自分のブログの文章は他人に読まれることを前提とした組み立てを行っていない。

 いい機会だと思うので、自分のブログの書き方について書こうと思う。世の中には自分が思いついたことに対して即座に自分自身が否定し考えを棄却するタイプの人がいるが、自分はそのような人とは逆でとりとめもない考えが続々と沸き上がり、それを止める脳内機構もないのでネタに関しては困らない。よくネタを思いつくのは風呂に入っているときで、過去に思いついたネタがさらに根を広げるのもそんなときだ。

 就活中受けさせられた性格診断テストなどで「ときどきぽかんとしていることがある」という質問文をよく見かけたが、自分はまさにそんな感じで暇さえあればなにか過去に思いついた大したことでもないことを考えている。

 思いついたネタは可能な限りすぐにメモを取る。僕が使っているのはGoogle Keepだ。スマホのホーム画面からワンタップで新しいメモを作れるように設定している。そして時間があるときにメモ帳からサルベージし、それぞれの形態の初期状態として保存しておく。例えばブログの場合であればタイトルと簡単な本文の内容だけ書いて下書きで保存。音楽やゲームのアイデアならどんな内容かわかるタイトルでプロジェクトを作成し保存、といった具合だ。

 僕にとって一番の障害となるのはやる気だ。ネタを思いつき、それを成長させることに関しては得意だと感じている。そのクオリティに関してはわからないが。しかし、アイデアを形にすることに関してはとにかく苦手でめんどくさいと感じる。まあほとんどの人はそうだと思うが。なのでやる気がるときに一気に適当に書き上げるようにしている。

 ブログの書き方はこんな感じだ。タイトルに話を戻すと、自分が未来に残るような大作を作り上げるとは考えられないし、そもそもそのようなものを作り上げられるような創作の形態をとっていない。しかし、思いついたネタに関しては自分は面白いと思っているし、人にも知ってもらいたいと思っている。なので「自分が作ったこの作品を私はとても面白いと思っていますが、きっとほかの名作を見たほうが有意義なので、本当に暇な人のみご覧ください」のような回りくどいオススメ文を書くことになる。そういった意味で、なんのなかみがなくても記事に対して食いつきをよくすることができるブログ構文の文章は書きたくないと言っている。

 「本当にいいものはそんな構文なんか使わなくても人々に読まれる」ということが言いたいんじゃない。超高速で情報が行きかう現代社会においてはとにかく情報の形態をフックが多いものにしないと、たとえ良いものでも人の目に留まることはないと思っている。

 結局なにが言いたいのかわからないこんな文章に対して人の時間を使わせたくない。しかし自分が考えたことを表現したい気持ちはある。他者と自分に対して真摯になるとこんな感じになる。

 作品に対する自分の姿勢の自己分析は「面白そうとは思っているが、人の時間を奪うほどのものではない」というものだと思っていた。しかし、この文章を考えているうちに「人の時間を奪いたくない」というのは自分が作品に対して真剣に向き合っていないことへの免罪符としているのではないかとも思うようになった。「真剣に作っていないから人に見られたくない」あるいは「こんなに時間をかけて作ったものが評価されないのは悔しいからそう思って意地を張っている」のかもしれない。

 これを読んでいる人に対しては何の実りもない文章だったが、書いている自分にとっては新たな気付きを得ることができたので意義があったと思う。よかった。

 終わり

「神絵師になりたい」と神絵師がつぶやく理由の社会学的理解(「階層イメージの形成」研究からの視点)

(理論の恣意的理解がある可能性があります。気を付けていますが、話半分でお聞きください)  

 大仰なタイトルだが、言いたいことはシンプルだ。

 神絵師が「神絵師になりたい」とツイートするのは謙遜などからではなく、実際にそう思っているからであり、その理由は「自分の画力は全体の中間層くらいである」という認識を持っているからである。

 そのような認識が形成される理由は人間が現実の社会階層イメージを形成するときに行われていることが原因である。

 人間は自身が社会階層の中のどの程度の位置にいるのかを認識しようとするために社会階層イメージを作ろうとするが、それは主観からでしか作ることはできない。また、主観によって作られた階層イメージはそれを形成した主体がいる客観的な階層に向かって細かく分類されるようになっている。

 つまり、主体に近い階層にいる他者に関しては細かく分類することができるが、主体から離れている階層にいる他者に関しては大雑把な分類しかできないのである。

 その結果、客観的に見てその主体が実際にはどの階層にいるかに関わらず、形成される階層イメージは各階層の高さを等しいものと考えた場合に、自身を中心として上下に等しく伸びることになる。これは「自分は中間層である」という意識の増大につながる。「国民総中流意識」などもここからくるものだ。

 なので、もしあなたからみて「神絵師」だと感じていても当の本人は「自分は普通くらい」という意識があるので「神絵師になりたい」というツイートをするのである。だから、「もう十分神絵師だろ!!!!!!!!!!!ふざくんな!!!!!!!!!!!」と怒らず、「そういうものなんだな」と受け止めてみてはいかがだろうか。

 参考文献

stars.repo.nii.ac.jp

↑論文ですが死ぬほど読みやすいので一読してみてください

 

ショーペンハウアーの読書に関する考えは現代に通用するか

(今回の話に明確なオチはないので本当に暇な人だけお読みください)

(理論の恣意的理解がある可能性があります。気を付けていますが、話半分でお聞きください) 

 ショーペンハウアーという哲学者がいる。

アルトゥル・ショーペンハウアー - Wikipedia

 自分は読書法が知りたくてさまざまな本を読んでいた時、ある本の中でこの著者の『読書について』という本が紹介されているところからこの哲学者を知った。

 一時期はこの本にのめりこみ、結果、創作活動に対してとても高いハードルを自分に課すようになってしまっていた。それはこの本で述べられているのが「現代に新しく出版され、重版に重版を重ねているような本はほとんどが金目当てのクソだから読むな。古典を読め」という主旨だからだ。さらにもっと言えば真の思想家に対しては「本なんか読むな」と言っている。「本を読むのは他人にものを考えてもらうのと同じだ」と。

 「本の読み方」を知りたくてこの本を手に取った自分が、こんなことを言われた気持ちはご想像つくだろうか。とにかく衝撃だった。一時期はニュースすらみず、ひたすらにこの本を読むことに時間を費やしていた。

 今現在は、ごらんのとおり、「疎い作品でも世の中に出さなければ始まらない」という気持ちでもって様々なものを作り見てもらおうとしているが、自分が消費するものに関しては「古典であること」「長く評価されているもの」に対して時間を割くことに意義を見出すというのをまだ引きずってしまっている。

 しかし、実際のところこの移り変わりの激しい現代社会で、新しいことを学ばずに生きていくことは可能なのだろうか。

 と、ここまで書いて、「新しい知識を得る」のと「読書」とは切り分けて考えられるものであるという可能性があることを思いついた。

 話はそれるが、この本の中でものを書く人間が3つに分類されている。一つはすでに考えをまとめあげ、あとはただ文章にするだけの人、もう一つは考えるために書く人、最後が考えないで書く人だ。ショーペンハウアーは最初に挙げた人物のなかでも事柄そのものについて思索をめぐらした人こそが真の思想家であるとしている。今これを描いている自分は2番目であるなとつくづく感じた。

 まだ様々なことを書きたいと思ったが、話をまとめられていないうちに書き出すのはよくないとこれを書いているうちに思ったので、今回はここで終わろうと思う。

 気になった人はぜひこの本を読んで、その衝撃を体感してほしい。この本を顧みてこの文章を読むと本当に恥ずかしい

CIAになる方法

 最近トム・クルーズの「ミッション・インポッシブル」シリーズとマット・デイモンの「ボーン・アイデンティティー」シリーズを続けて見たのでCIAになる方法について興味が湧いた。調べる前のイメージとしては「いかにも普通のサラリーマンといった風体の男が軍や警察の特殊部隊の中で優秀な人材をスカウトしにやってくる」みたいなことを考えており、一般人に対しては門戸が開かれておらず、存在が謎の政府機関・・・・・・といういかにもな想像をすることが限界だった。しかし、調べてみるとそんなこともないということが分かった。これから書くのはネット上の適当なサイトの話なので、ソースとしての信頼性はほぼゼロなことを了承していただきたい。

 

Careers — Central Intelligence Agency

↑CIAの就職希望者向けページ。一般企業とそんなに変わった様子はない。まあ、怪しさ満天じゃあ諜報機関としての役割を果たせない気もするが。

 

 まず大前提としてアメリカ国籍を持ってないとダメなようだ。そのほかにも運転免許の所持、五感の健康、23歳以上35歳未満であることが最低条件だそうだ。

 この条件を満たす人物であれば誰でもCIAへの応募をすることができる。

 

www.youtube.com

↑CIAの公式YouTubeチャンネル

 

 しかし、大抵の場合にはアイビーリーグの学生の中で、優秀な上こういった仕事に興味があると思われる学生を教員の協力のもと探し出し、スカウトしに来るらしい。ここらへんも一般企業と違っておおっぴらに募集宣伝しない以外は普通っぽい。

 もし募集要項に合致し第一関門を潜り抜けたら、長い長い面接期間に入る。ページによって言っていることはさまざまであるが、面接は一日がかりで行われ、面接と面接の間の期間は長ければ1年空くこともあるそうだ。

 

www.wikihow.com

↑「CIAになるためにはどういう人物になるべきか」解説しているサイト。おもしろいね。

 

また面接内容はこれまた普通で、

CIAの諜報員スカウト

こちらのページからいくつか抜粋すると

  • CIA秘密諜報員になったら、仕事の内容は家族・友人には話せないが、どう思うか?
  • 外国政府諜報機関に四六時中監視され、会話も盗聴されているような地域に住みたいと思うか?
  • 同性愛行為をしたことがあるか?

など、想像以上のことは聞いてこない・・・・・・のかな。

 面接をパスするとヴァージニア州ラングレーCIA本部での訓練が始まり、終了後仮採用職員として働くことになるそうだ。

 まあとにかくこんな感じで、いくら門戸が開かれているといっても、いわゆるトム・クルーズマット・デイモンのようなケースオフィサーになるのは軍や警察でそれなりのキャリアを積んできた人がなるようなもんだと勝手に思っているが、サイモン・ペッグの役割ならいわゆる一般市民でもなれるチャンスは開かれているんだということが分かった。

 ちなみに日本人がCIAになることは「アメリカ国籍」の条件に引っかかるので当然無理だが、ケースオフィサーからの雇われの身(エージェント)になるというのはまことしやかにささやかれている噂で存在するらしい。(「日本のCIAエージェント一覧」とかググると出てくる)政界や経済界で有力になるとそんなお誘いが来るそうだ。CIAに関わりたい人はまず国内での立身出世を考えてはいかがでしょうか。

 

参考サイト

http://happism.cyzowoman.com/2013/07/post_2746.html

https://www.businessinsider.jp/post-245

https://woman.mynavi.jp/article/141112-78/

http://wanderphoto.com/opencity/virginian8.htm

http://wldintel.blog60.fc2.com/blog-entry-444.html

http://www.wikihow.com/Become-a-CIA-Agent

https://www.youtube.com/channel/UClFKF4TkuGWFkkeMYYQoOmg

苦味の慣れと名作と「センス」の話(「バナナ・アルバム」'The Velvet Underground & Nico')

(今回の話に明確なオチはないので本当に暇な人だけお読みください)

 2年ほど前に、「自分は洋楽好きを自称しているが、いわゆる名盤に対してそんなに詳しいわけではない。リアルタイム世代でもないし、ここらで一つ知識をつけよう」と思い、米国「ローリングストーン」誌が発表している"500 Greatest Albums of All Time"の名盤を上から借りていったときがあった。

www.rollingstone.com

 そのなかでも特に惹かれたのはビートルズで、いままでビートルズのイメージはいわゆる前期のものしかなく、あまり趣味でないと思い敬遠していたのだが、「ラバー・ソウル」以降のぶっ飛びかけビートルズにはこころをつかまれた。"I Am The Walrus"が特に好き。さて、本題はビートルズではない。今回話したいことの中心はバナナのアルバムジャケットが有名なこれ

www.rollingstone.com

第13位にランクインしている、ヴェルヴェット・アンダーグラウンドの'The Velvet Underground and Nico'である。


The Velvet Underground - I’m Waiting For The Man (Live At The Matrix)

特に有名(だと自分が思っている)曲はこれで、また、曲自体は聞いたことなくてもこのアルバムジャケットは知っているという人は多いのではないだろうか。

 さて、自分もこの曲だけは知っており、ほかの曲はどんなもんだろうかと借りてみたのだが、最初に抱いた感想は「・・・・・・?」だった。ダラダラとした演奏とかったるげな歌い方に感じられ、ほかの曲で「これいいな」と思った曲はひとつもなかった。そんなわけで借りてから数週間は何度か通して聴いてみたものの、結局このアルバムの再生履歴の定位置は奥深くへと埋もれることになった。

 数か月後か一年後か。とにかく初聴からしばらくたって気まぐれにまたこのアルバムを聴くことになった。たぶん2曲目の上に挙げた曲を聴こうと思ったんだろう。するとどうだろう。1曲目から最後まですべて捨て曲がないほどよく感じられるではないか。ダラダラさは心地よい倦怠感となり脳をマヒさせていく、そんなサウンドととらえられるようになっていた。

 実は過去にほかにも似たような体験をしたことがあった。それはYouTubeで音楽をあさっていた時のことだ。そのとき3曲連続で知ることになったのが、

www.youtube.com

www.youtube.com

www.youtube.com

この3曲だ。まだ、洋楽に対して知識がなかったので、まさに頭を吹っ飛ばされる衝撃だった。悪い意味で。「誰がこんな曲を聴くんだ」そう思った。特に2、3曲に関しては今までの自分の音楽知識からは考えられないような歌声だったので記憶に焼き付くことになった。「誰がこんなものを聞くんだ」と思って一時は捨て置いていたが、この曲らを思い出すたびにYouTubeを開くようになり、結果、現在この三組は自分の好きなバンドとなっている。

 このようなことはなぜ起きるのだろうと考えた時に自分の頭によぎったのは味覚の苦味に関する話だった。子供の時にはほとんどの人がコーヒーのような苦いものを飲食するのは苦手だったはずだ。そもそも苦味は自然界においては「それを口にしてはいけない」ということを知らせるものであり、進んで口にすべき様なものではないことは自明だ。それが大人になっていくにつれ、あるいは苦味になれるにつれ、自然の法則に反してコーヒーやビールなどを美味しいと感じるようになっていく。

 この現象と同じで一旦は「こんなもの読めない、聴けない、見れない」と思ったものであっても、いわゆる「名著、名盤、名作」はそれがそういわれる所以があるわけで、こころに何かしらの影響を与えていく。名作との接触はそのこころに種をまくことになり、いつしか芽が出ることになるといえるのだろうか。

 ここまでの話だけで結論付けるとすれば、「名作はわけわかんないと思ってもいいからとりあえず一回目を通しておくと、長い目で見れば人生を豊かにすることができる」と言えるかもしれない。しかし、実際そうだろうか。名作を楽しむことができるようになったら本当に人生を豊かにすることができるのだろうか。苦味を楽しめるようになることは自然から外れていないか?しかし、人工物を楽しむということは極めて非自然的なことだ。

 ここからさらに堂々巡りの脳内議論をすることになったので今回はここで記事を終わろうと思う。また、なにかこの話で明確なオチが思いついたら続きを書く。