予想の斜め下に埋まっているブログ

徒然なるままに考えたことを書く、読んだ結果「ひまつぶしになった」という効用以外ないブログ

2017.7.5のお題

麹蓋 - Wikipedia

デトリタス - Wikipedia

ソーダ石灰 - Wikipedia

「麹蓋」と「デトリタス」で菌関係がかぶりました。唐突ですが『もやしもん』好きです

2017.7.4のお題

原虫 - Wikipedia

形式主義 (数学) - Wikipedia

パッシブ・マージン - Wikipedia

 

高校のカリキュラムに限れば、理系科目で地学が一番好きです。物理、化学、生物より実生活に役に立つことをいろいろ知れた気がします。

以下雑記

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2017.7.3のお題

東京都戦没者霊苑←慰霊施設

和田朋子←英語学者

雪田将司←声優

2017.7.2のお題

2017.7.2のお題

幽霊ゾンビ←お化け屋敷クリエイター ()

倉石忠彦←戦後の民俗学者 ()

簗田成助←戦国武将 ()

 

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「今の自分の感じ方・考え方」をメモしておくと後々いいんじゃない?って話

 僕はニュースで報道されるような社会問題や個人的に感銘を受けた事柄に出会った場合には、そのときの気持ちや考え方をメモるようにしている。Google Keepを使って一つのメモにまとめている。新しい文章はすでに書いてある一行目を改行してそこに書くようにしているので、あとから見返すとさながら地層のように自分の考えの変遷をたどることができる。

 人はどんどん変わっていく。今は当たり前だと思っている考え方が未来もそうだとは限らない。変わっていくことを否定するわけではないが、その「変わった理由」を考える上では今までどんな考えを持っていたのか知っていないとできないと思う。そういう意味で自分の指針となるものの作成に一躍買うと思ってこれを続けている。

 そんなに深刻な話にしなくても、「昔はこんなふうに考えていたな」と振り返るだけでも面白いし、発見がある。

読書について

 「年間数百冊読んでます」という宣言は一つの指標ではあるがその読書生活の実態を表したものではない。本当に重要なことは「その読んだ本の中から一生ものの何かを得られたか」だ。

 ショーペンハウアーに言わせれば「読書は他人にものを考えてもらうことであり、自分の脳内の運動場を好きにさせることだ」と「読書はなるべく敬遠すべきであり、事物に関して施策をめぐらせられないときに取り組むようなこと」である。だが、この助言が対象としているのは次世代に残るような金字塔を打ち立てる人に対してであり、そのような人は自ら心理をつかみ取ることができるので読書は必須ではない。しかし、我々一般人に関しては現実をより深く理解するための助けが必要である。

 また、「知識の収集」と「読書」との違いも考えるべき問題だ。知識の収集のためには最新の情報に触れる必要もある。しかし、「情報を得る」ことと「読書」することは必ずしもイコールで結ばれるものではない。情報はそれに触れることで簡単に得られるが、知識を得るのは読書を通してでしかできない。

 最新の情報に触れることは重要だが、覚えておく必要はない。逆に真の読書はその本を何度も読み、自分の中の思想体系の一部として吸収するために行うことで、また、それをするに値する本で行うべきだ。

 ほとんどショーペンハウアーの丸パクリの考え方だが、ショーペンハウアーは『読書について』のなかで「通俗的日刊新聞」についてひどくこきおろしている。「人の時間を奪う巨悪だ」と。この点に関しては現代社会に当てはめると疑問の余地が残る。ここで上げている「通俗的日刊新聞」というのが東スポレベルのことを言っているのかそれとも五大紙も含めたものを言っているのかは分からないが、仮に五代紙を含めたすべての新聞に関して言っているのであれば、現代において「ニュース」を知らずに生きていけるのかという疑問が発生する。「通俗的」が原文においてどのように書かれているのか調べる必要がある。

みんなが食いつくようなブログ構文の文章は書きたくない(僕の「読まれないようにする」のブログの書き方)

(今回の話に明確なオチはないので本当に暇な人だけお読みください)

 ただそんな気分。ショーペンハウアーの考えにどっぷりつかっているので、基本的に自分の作品に対してなるべく時間を使ってほしくないと思っている。それならば、過去の名著なり、名画なり、名盤なりを鑑賞する時間に使ってほしい。そもそも自分のブログの文章は他人に読まれることを前提とした組み立てを行っていない。

 いい機会だと思うので、自分のブログの書き方について書こうと思う。世の中には自分が思いついたことに対して即座に自分自身が否定し考えを棄却するタイプの人がいるが、自分はそのような人とは逆でとりとめもない考えが続々と沸き上がり、それを止める脳内機構もないのでネタに関しては困らない。よくネタを思いつくのは風呂に入っているときで、過去に思いついたネタがさらに根を広げるのもそんなときだ。

 就活中受けさせられた性格診断テストなどで「ときどきぽかんとしていることがある」という質問文をよく見かけたが、自分はまさにそんな感じで暇さえあればなにか過去に思いついた大したことでもないことを考えている。

 思いついたネタは可能な限りすぐにメモを取る。僕が使っているのはGoogle Keepだ。スマホのホーム画面からワンタップで新しいメモを作れるように設定している。そして時間があるときにメモ帳からサルベージし、それぞれの形態の初期状態として保存しておく。例えばブログの場合であればタイトルと簡単な本文の内容だけ書いて下書きで保存。音楽やゲームのアイデアならどんな内容かわかるタイトルでプロジェクトを作成し保存、といった具合だ。

 僕にとって一番の障害となるのはやる気だ。ネタを思いつき、それを成長させることに関しては得意だと感じている。そのクオリティに関してはわからないが。しかし、アイデアを形にすることに関してはとにかく苦手でめんどくさいと感じる。まあほとんどの人はそうだと思うが。なのでやる気がるときに一気に適当に書き上げるようにしている。

 ブログの書き方はこんな感じだ。タイトルに話を戻すと、自分が未来に残るような大作を作り上げるとは考えられないし、そもそもそのようなものを作り上げられるような創作の形態をとっていない。しかし、思いついたネタに関しては自分は面白いと思っているし、人にも知ってもらいたいと思っている。なので「自分が作ったこの作品を私はとても面白いと思っていますが、きっとほかの名作を見たほうが有意義なので、本当に暇な人のみご覧ください」のような回りくどいオススメ文を書くことになる。そういった意味で、なんのなかみがなくても記事に対して食いつきをよくすることができるブログ構文の文章は書きたくないと言っている。

 「本当にいいものはそんな構文なんか使わなくても人々に読まれる」ということが言いたいんじゃない。超高速で情報が行きかう現代社会においてはとにかく情報の形態をフックが多いものにしないと、たとえ良いものでも人の目に留まることはないと思っている。

 結局なにが言いたいのかわからないこんな文章に対して人の時間を使わせたくない。しかし自分が考えたことを表現したい気持ちはある。他者と自分に対して真摯になるとこんな感じになる。

 作品に対する自分の姿勢の自己分析は「面白そうとは思っているが、人の時間を奪うほどのものではない」というものだと思っていた。しかし、この文章を考えているうちに「人の時間を奪いたくない」というのは自分が作品に対して真剣に向き合っていないことへの免罪符としているのではないかとも思うようになった。「真剣に作っていないから人に見られたくない」あるいは「こんなに時間をかけて作ったものが評価されないのは悔しいからそう思って意地を張っている」のかもしれない。

 これを読んでいる人に対しては何の実りもない文章だったが、書いている自分にとっては新たな気付きを得ることができたので意義があったと思う。よかった。

 終わり