予想の斜め下に埋まっているブログ

徒然なるままに考えたことを書く、読んだ結果「ひまつぶしになった」という効用以外ないブログ

読書について

 「年間数百冊読んでます」という宣言は一つの指標ではあるがその読書生活の実態を表したものではない。本当に重要なことは「その読んだ本の中から一生ものの何かを得られたか」だ。

 ショーペンハウアーに言わせれば「読書は他人にものを考えてもらうことであり、自分の脳内の運動場を好きにさせることだ」と「読書はなるべく敬遠すべきであり、事物に関して施策をめぐらせられないときに取り組むようなこと」である。だが、この助言が対象としているのは次世代に残るような金字塔を打ち立てる人に対してであり、そのような人は自ら心理をつかみ取ることができるので読書は必須ではない。しかし、我々一般人に関しては現実をより深く理解するための助けが必要である。

 また、「知識の収集」と「読書」との違いも考えるべき問題だ。知識の収集のためには最新の情報に触れる必要もある。しかし、「情報を得る」ことと「読書」することは必ずしもイコールで結ばれるものではない。情報はそれに触れることで簡単に得られるが、知識を得るのは読書を通してでしかできない。

 最新の情報に触れることは重要だが、覚えておく必要はない。逆に真の読書はその本を何度も読み、自分の中の思想体系の一部として吸収するために行うことで、また、それをするに値する本で行うべきだ。

 ほとんどショーペンハウアーの丸パクリの考え方だが、ショーペンハウアーは『読書について』のなかで「通俗的日刊新聞」についてひどくこきおろしている。「人の時間を奪う巨悪だ」と。この点に関しては現代社会に当てはめると疑問の余地が残る。ここで上げている「通俗的日刊新聞」というのが東スポレベルのことを言っているのかそれとも五大紙も含めたものを言っているのかは分からないが、仮に五代紙を含めたすべての新聞に関して言っているのであれば、現代において「ニュース」を知らずに生きていけるのかという疑問が発生する。「通俗的」が原文においてどのように書かれているのか調べる必要がある。